DAVID BOWIE CHRONOLOGY

INTRODUCTION

ボウイはカメレオンのように音楽性を変化させていくことを常套手段としたアーティストだと評される。しかし、そのような評価はあまりに表面的で、 70年代の全盛期にしてみても内在する音楽的な傾向を顕在化することはテクニカルなスキルのひとつでしかなかった。その事実は今の時代にこそ語られるべきだろう。

60年代後半にモッズにかぶれ、オールラウンドなパフォーマーとして数年を過ごした後、来たる時代とともにシンガーソングライターの資質を自己に再発見した。英国ロック界の寵児となる1972年、ボウイはプロトメタルなアルバムを録音する。それがグラムロックを一躍シーンのメインストリームに押し上げた『ジギー・スターダスト』である。ジギーの人気はアメリカにまで及び、さらに巨大化していくが、グラムロックの旗手という肩書きには全くもって満足しなかった。
70年代中期まで、退廃的なロックを経過し、自身で”プラスティック・ソウル”と命名したフィラデルフィア・ソウルをアヴァン・ポップに変形させたスタイルでアメリカを手懐けることに成功。1976年『ステイション・トゥ・ステイション』では孤高のヨーロピアン・ファンクを完成させる。その後間もなくボウイはベルリンへ飛び、ブライアン・イーノを召喚して実験的な電子音楽を立て続けにレコーディングする。これが俗に言うベルリン三部作である。
80年代が明けてもボウイの超常的な才能は衰えを見せなかった。しかし、1983年にEMIアメリカへの移籍を契機にリリースしたダンスポップ・アルバム『レッツ・ダンス』が爆発的な人気を獲得する裏側で、非凡は平凡の中に淀んでいった。再起までには10年近い歳月を要し混迷を深めることとなる。だが、 80年代と90年代の流行遅れであったときにさえもボウイがロック界でもっと影響力を持つアーティストであったことは明確だった。音楽はもちろん、ボウイがそれまでに生み出してきたスタイルや表現にまつわるアプローチは、幾多のサブジャンルをかきたててきたし、パンク、ニューウェイヴ、ゴス、ニュー・ロマンティックス、さらにはエレクトロニカまでを含む広範な領域に影響を与えたアーティストはボウイ以外史上例を見ない。

デヴィッド・ロバート・ジョーンズは13歳のときに音楽を演奏し始めた。ブロムリーの工業高校に在学中サックスを学んだのが最初だった。高校時代の重大事件がもうひとつ。ガールフレンドをめぐる学友とのケンカの怪我で、ボウイの左眼の瞳孔が膨張したまま閉じなくなってしまったのである。
卒業後ボウイは広告代理店で働きながらモッズ・バンドでサックスを吹いた。キング・ビーズにマニッシュ・ボーイズ、デイヴィ・ジョーンズとロウアー・サード。3つのバンドでシングルをリリースする機会を得たが、どれも不発に終わる。1966年当時人気だったモンキーズに同名人物がいることを知りデヴィッド・ボウイと改名。パイ在籍時には3枚のシングルを発表する。だが、このときも話題にはならなかった。翌年デラムとの契約にこぎつけ、アンソニー・ニューリーのような古典的なエンターティナーのスタイルでプロモーションに出た。レコーディングを終えた後、ボウイはスコットランドにある仏教徒の僧院で数週間を過ごす。いったん僧院を出て、今度はリンゼイ・ケンプの一座についてパントマイムを研究する。1969年フェザーズというグループを結成し、独自の活動も行った。フェザーズは短命だったが、次のベッケナム・アーツ・ラボなるワークショップを運営する活動につながっていった。

アーツ・ラボに融資するためにボウイはその年にマーキュリーと契約し『Man Of Words, Man Of Music』(後にスペイス・オディティと改題)を発表する。そのアルバム中の「スペイス・オディティ」はシングルカットされ、イギリス国内ではスマッシュ・ヒットを記録し、ようやくボウイの生活が音楽中心になっていった。
旧友マーク・ボランのティラノサウルス・レックスのコンサート・ツアーに同行し、何度か客演もつとめた。ボランとのツアーを終えたボウイは、ベーシスト兼プロデューサーのトニー・ヴィスコンティやギタリストのミック・ロンソン、ドラマーのケンブリッジとともにハイプなるグループを結成しコンサート・ツアーを敢行。ハイプはすぐに解散となったが、ボウイとロンソンは交流を深めていった。次のアルバムのレコーディングに取り組む際にドラマーの新規採用を行いミック・ウッドマンジーが加わった。ヴィスコンテのプロデュースで完成した『世界を売った男』はほとんど注目されなかった。ボウイは1971年後半にはポップスロックなアルバム『ハンキー・ドリー』(ロンソンとキーボードのリック・ウェイクマンをフィーチャーしたアルバム)も発表。

『ハンキー・ドリー』に続いて、キャリア中で最も有名な『ジギー・スターダスト』の構想に着手、それは別の惑星から来た両性具有のバイセクシャルなロックスターを描いた架空のオペラだった。ジギーを発表する寸前の1972年1月、ボウイはメロディ・メイカー誌のインタビューで「自分は同性愛者である」とカミングアウトし、ロックファンのみならず人々の関心を集める手段へ打って出た。
ボランの煌びやかなグラムロックを手がかりに、ボウイは髪をオレンジを染め、女性用の衣装を着始めた。さらにジギーのペルソナを従え、彼のサポート・バンド(ロンソン、ウッディ、ベーシストのトレヴァー・ボルダー)もスパイダース・フロム・マースと命名した。『ジギー・スターダスト』は1972年の後半にリリースされ、イギリス全土の注目の的となり、好セールスを記録した。また演劇的要素を含んだシアトリカルなコンサートも話題を呼ぶ。そして新たな市場を開拓するため初のアメリカ遠征ツアーも組んだ。コンサート・ツアーとともに『ジギー・スターダスト』はアメリカでも口コミで評判が広がり、同時期に再発された『スペイス・オディティ』はアメリカン・チャートのトップ20にランクイン。翌1973年、続くアルバム『アラジン・セイン』を発表、その他にもボウイはルー・リードの『トランスフォーマー』やストゥージズ『ロウ・パワー』、またモット・ザ・フープルの復帰作『すべての若き野郎ども』をプロデュースするなど超過密な1年間を過ごした。

容赦ないスケジュールとジギーの狂騒がボウイ自身の精神を蝕んでいったのは当然のことだった。全曲カヴァーで構成されたアルバム『ピンナップス』をスパイダースと作り上げた後、ボウイは不意にバンドを解散させる。ツアー最終日のコンサートで突然の引退宣言をした後のことである。
ジョージ・オーウェルのデストピア小説『1984年』の舞台化に取り組むため、一時的にメディアへの露出を控えたが、舞台化は遺族の許可が下りず、構想は『ダイアモンドの犬』へと余儀なく変更され、1974年にリリースしたが評価はさほどよくなかった。しかし、シングル「愛しき反抗」はヒットチャート上位にランクインし、絢爛豪華なステージセットを用意したアメリカ・ツアーの成功もアルバムの売れ行きを伸ばすことを手伝った。ツアー日程を消化していく中で、ボウイはソウル・ミュージックに傾倒するようになる。ボウイ最新のスタイル”プラスチック・ソウル”を反映するためにツアーは仕切り直し、ツアーのサポート・バンドのリーダーにギタリストのカルロス・アロマーを任命してバンドもフィリーソウルのグループに編成し直した。それらの変化はライヴ・アルバム『デヴィッド・ライヴ』で実況されているが、当時のファンはボウイのあまりの変貌ぶりに驚かされた。

1975年にリリースした『ヤング・アメリカンズ』でボウイのソウル・ミュージックへの傾倒ぶりはピークに達した。そして、ジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」では悲願の全米チャート1位を獲得。ボウイはロサンゼルスへ移住し、翌年公開のニコラス・ローグ監督による主演映画『地球に落ちてきた男』のクランクインに備えた。ロスでレコーディングした『ステイション・トゥ・ステイション』は、前作よりもアヴァンギャルドな内容にもかかわらず、シングル「ゴールデン・イヤーズ」がトップ10入りのヒットを記録。アルバムには新たなキャラクター、シン・ホワイト・デュークが登場するが、それはコカイン摂取による妄想の化身だった。ロサンゼルスの暮らしに辟易したボウイはヨーロッパへ戻ることを決意する。
ロンドン凱旋のためヴィクトリア駅に降り立った際、群衆に向かってナチス式敬礼を放ったことが論争を巻き起こした。当時ナチスに傾倒していた渦中のボウイは、友人イギー・ポップとともにベルリンへ住みつくためにすぐさま国を出た。

ベルリンでの生活は実に質素で、ドラッグから足を洗い、アートを研究する傍ら絵を描き始めた。また、ドイツのエレクトロニック・ミュージック・シーンが活性化した時期でもあり、ボウイの関心は自然に引き寄せられた。その筋で腕利きのブライアン・イーノを迎えてアルバム『ロウ』を制作し、1977年の早々にリリースした。『ロウ』はニューウェイヴの先駆と称され、大衆的でありながらアヴァンギャルドな電子音楽を完成させた。当時のプレスは賛否両論を投げかけたが、70年代後半の最も重要なアルバムのひとつだと現在も高い評価を得ている。その年続けざまにアルバム『ヒーローズ』を発表しただけでなく、イギーの復帰作『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』のプロデュースを手がけ、さらにサポート・バンドのキーボード奏者として匿名でツアーにまで同行した。そして、ボウイは1977年から俳優業を再開する。映画『ジャスト・ア・ジゴロ』ではマレーネ・ディートリヒやキム・ノヴァクと共演、ユージン・オーマンディ指揮による『ピーターと狼』では息子のためにナレーション役のオファーに応じた。
1978年は再びワールド・ツアーを敢行。2枚組のライヴ・アルバム『ステージ』もリリース。1979年中はイーノとニューヨークやスイス、そしてベルリンのスタジオでアルバム『ロジャー』をレコーディングして年末にリリースした。『ロジャー』は翌年の『スケアリー・モンスターズ』とあわせて斬新なビデオクリップを次々と繰り出して話題を集めた。

『スケアリー・モンスターズ』はRCAからリリースとなる最後のアルバムだった。このRCA時代こそ、最も革新的で生産的なボウイの黄金時代だったと評されることが多い。
1980年、ブロードウェイでも上演された『エレファントマン』の舞台のジョン・メリック役を文字通り裸一貫でつとめた。次の2年間はドイツの映画『クリスティーネ・F』と吸血鬼映画『ハンガー』に出演するなど俳優業に専念しており、音楽活動は1981年クイーンと共同名義のシングル「アンダー・プレッシャー」のレコーディングとポール・シュレーダーの映画『キャットピープル』のテーマソングを制作したくらいだった。
莫大な契約金を受けて移籍したEMIアメリカから1983年『レッツ・ダンス』をリリース。プロデューサーにはシックのナイル・ロジャースを、ギタリストにはスティーヴィー・レイヴォーンを迎える。艶がありファンキーなダンスビートは、時代のど真中を射抜いて世界規模のメガヒットとなった。シングルカットの「レッツ・ダンス」、「チャイナ・ガール」、「モダン・ラヴ」などのヴィデオクリップが毎日のようにテレビ放送され、ボウイの知名度が日本でも飛躍的に高くなった。大島渚監督の映画『戦場のメリー・クリスマス』の封切りやワールド・ツアーでの来日公演が実現し、1983年の人気はボウイ史を振り返れば絶頂期にあった。

大規模な成功をおさめた者への洗礼が例外なくボウイにもふりかかる。1984年に発表した『トゥナイト』も好調な波に乗ってセールス的には成功していたが、その実は前作の焼き直しでしかなかった。シングル「ブルー・ジーン」が当たりアルバムはよく売れたものの、プレスやファンの評判は振るわなかったのはそのためで、そしてここからボウイ人気は次第に失速していく。
20世紀最大のチャリティ・コンサート”ライヴエイド”のためにミック・ジャガーと「ダンシング・イン・ザ・ストリート」をデュエット。80年代中盤は音楽活動よりも俳優業に力を入れていた。映画は『眠れぬ夜のために』、『ビギナーズ』、パペットたちと共演した『ラビリンス』などに出演、それぞれヒットはするもののファンは次回作を待ち望んでいた。
1987年巨額の費用と構想を敷いたアルバム『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』とグラス・スパイダー・ツアーなる大規模なワールド・ツアーを発表。ロックの大御所として再起をかけたが、すでに時代の流れはボウイのいる場所からずいぶん遠のいていた。
1989年、ティン・マシーン結成。バンドのヴォーカリストとして活動する方針でアルバムも発表し、話題を呼んだ。また一方で、ライコとともにRCA時代のカタログをCDフォーマットでリリースするた音源発掘作業を行う。1990年、サウンド・アンド・ヴィジョン・シリーズと銘打ったカタログ再発とにあわせて、世界各地を回る同名のワールド・ツアーを敢行。今回は「過去の楽曲の一切を今後演奏しない、このツアーで最後さ」という決別宣言付きのグレイテスト・ヒッツ・コンサートだった。

サウンド・アンド・ヴィジョン・ツアーは成功をおさめた。次期プロジェクトだったティン・マシーンは、自らがいちメンバーとしてプレイするという名目で1989年から1992年の3年間で2枚のアルバムと2度のライヴ・ツアーを行った。ティン・マシーンへの評価は過去最も失敗の声が多かったが、グランジ・ロックの影響下にソニック・ユースやピクシーズをリスペクトした音楽性で、徐々に創作意欲を回復させていった。とりわけギタリストのリーヴス・ガブレルスとの出会いは後の活動にも大いに影響を与えるものだった。

1993年ボウイはソロ活動を再開させる。ジャズファンクのサウンドで彩られた『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表。ふたたびナイル・ロジャースを迎えたアルバムだったが評価は振るわず。サヴェージというRCAの子会社の新しいレーベルからリリースされるが直後に破産してしまう。蘇生劇の続きは、同年に『The Buddha of Suburbia』(輸入盤のみ)というTVドラマのサウンドトラックを手がけ、これもセールス的には振るわなかったものの音楽的には久々に高い評価を得た。
今度はブライアン・イーノとのコラボレーションを復活させた猟奇殺人とアートをテーマにしたアルバム『アウトサイド』を1995年に発表する。当時は難解だという声が多かったが、ナイン・インチ・ネイルズとの共演やMTVでニルヴァーナがボウイの曲をカヴァーするなど、周囲の動きもあって、徐々に評価は高まっていった。『アウトサイド』は続編がアナウンスされていたもののお蔵入りに。ツアー後すぐにスタジオに戻ってレコーディングを開始し、1997年早々にドラムンベースを亜流に解釈したアルバム『アースリング』を発表。その後1999年にはリーヴス・ガブレルスとの共同プロデュース作『アワーズ』を発表し、2000年には約30年ぶりにグラストンベリー・フェスティバルに出演し、過去の音源では60~70年代前半のBBC音源が蔵出しされる。ボウイの好調が広まったのは、トニー・ヴィスコンティと制作した2002年発表の『ヒーザン』からだろう。その翌2003年には同じくヴィスコンティがプロデュースした『リアリティ』を発表。ほぼ10年ぶりに大規模なワールド・ツアーを開催する。ツアー終盤で心臓手術を受け、一時は再起が危ぶまれたが、その後もスローペースではあるものの他のアーティストのアルバムやライヴに客演するなど活動は継続している。